五木寛之(作家)は何を語る?激動の人生と作品の魅力とは?直木賞作家・五木寛之:戦争体験と家族愛。
激動の時代を生き抜いた作家、五木寛之。朝鮮半島での壮絶な幼少期、家族を支えた日々、そして文学への情熱。戦争、死、貧困を乗り越え、深い人間性と幅広い知識で数々の名作を生み出した。直木賞、吉川英治文学賞受賞。その作品は今もなお、読者の心に希望と勇気を届ける。
💡 五木寛之氏が、戦争や家族との別れなど、壮絶な幼少期の経験を語っている。
💡 作家デビュー後の直木賞受賞や、妻との出会いなど、作家としての成功について触れている。
💡 五木寛之氏の作品に共通するテーマである、家族愛や人間性について考察している。
五木寛之氏の波乱万丈な人生と、そこから生み出された作品の魅力に迫っていきましょう!まずは幼少期から紐解きます。
激動の幼少期と家族の絆
五木寛之氏の壮絶な幼少期の原体験とは?
終戦、母親との死別、そして帰国への道のり。
五木寛之氏が、70年ぶりに病院に行ったというエピソードから、戦争体験がいかに強烈だったかを想像させますね。
公開日:2022/04/20

✅ 作家の五木寛之さんが、約70年ぶりに病院に行ったというエピソードが語られている。
✅ 五木さんは戦争体験から病院を極端に嫌っており、これまで歯科以外には一度も医者にかからなかった。
✅ この記事は、五木さんの戦争体験や、彼が現在何を思っているのかを問う内容である。
さらに読む ⇒ニュースサイト出典/画像元: https://mainichi.jp/articles/20220420/k00/00m/200/115000c戦争の傷跡、家族の死、貧困…想像を絶する経験をされたんですね。
14歳で一家を支えたという事実に胸が締め付けられます。
1932年生まれの五木寛之氏は、激動の時代の中で幼少期を過ごしました。
教員である父親の仕事の関係で朝鮮半島で育ち、終戦を平壌で迎えます。
終戦直後の混乱の中、母親を亡くし、父親は茫然自失となり、中学1年生でありながら一家を支えることになりました。
幼い妹と弟、そして父親を連れて平壌を脱出し、2年かけて38度線を越えて帰国する壮絶な経験をしました。
帰国後は、一家を支えるために行商などを行い、過酷な環境下で成長しました。
父親からは古典や剣道の手ほどきを受け、五木氏は学問への興味も失いませんでした。
すごい…本当にすごい経験だね…言葉が出ないよ。でも、そんな大変な状況でも学問への興味を失わなかったって、すごくない?
作家への道と結婚
作家・五木寛之氏のデビューのきっかけは?
小説現代新人賞受賞。
五木寛之氏の作家としての道のりは、決して平坦ではなかったことが分かりますね。
早稲田大学中退後から作家として成功するまでの道のりは、想像を絶します。

✅ 五木寛之は直木賞受賞作家であり、幼少期の苦難を乗り越え早稲田大学に進学するも中退、その後CMソングなどを手掛け、作家として大成した。
✅ 結婚を機に五木姓を名乗り、妻・玲子さんの存在が作家としての成功に大きく影響し、子供はいないものの、著書を息子・娘のように大切にしている。
✅ 黒木瞳や裕木奈江など多くの芸能人の命名を手掛け、直木賞などの選考委員も務めるなど、文壇に多大な影響を与えている。
さらに読む ⇒「記憶をくすぐる」大人のメディア (ミドルエッジ)出典/画像元: https://middle-edge.jp/articles/K1S5D奥様との出会いが、五木氏の作家人生に大きな影響を与えたんですね。
公私ともに支え合う関係性、素敵です。
幼少期には父親から小説を読むことを禁じられていましたが、密かに友人の本を読み文学への興味を育んでいました。
早稲田大学露文科を中退後、1966年に小説現代新人賞を受賞し作家デビューを果たします。
その後、1967年には直木賞、1976年には吉川英治文学賞を受賞するなど、作家としての地位を確立していきます。
1965年には、精神科医で美術家の岡玲子さんと結婚し、五木姓を名乗りました。
玲子夫人は美術家としても活動し、五木氏の書籍装画も担当するなど、公私ともに支え合う関係を築きました。
早稲田を中退してCMソングとかやってたんですか!意外やな!売れへんかったら、どないなってたんやろか、想像したら怖いな!
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五木寛之。父への愛と喪失、そして佐村河内守への愛情。数々の苦難を乗り越え、名作を生み出し続ける不屈の作家、その生き様に迫る。