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北白川宮能久親王の生涯と激動の時代:皇族、軍人、そして悲劇?近衛師団長から陸軍大将へ。北白川宮家の数奇な運命

北白川宮能久親王、激動の幕末維新を駆け抜けた皇族。僧侶から軍人へ、数奇な運命を辿り、戊辰戦争、ドイツ留学、台湾出征…激動の時代を生き抜いたその生涯。皇室と政治、葛藤と選択、そして家族の絆。ボンボニエールに込められた想いとは?歴史の波に翻弄された男の姿を紐解く。

北白川宮能久親王の生涯と激動の時代:皇族、軍人、そして悲劇?近衛師団長から陸軍大将へ。北白川宮家の数奇な運命

📘 この記事で分かる事!

💡 北白川宮能久親王は幕末維新と日清戦争を駆け抜けた皇族。激動の時代を生き、様々な立場を経験した。

💡 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主となり、日清戦争では台湾攻略戦に参加。その生涯は波乱万丈であった。

💡 北白川宮家は、明治維新後、相次ぐ当主の早逝という悲劇に見舞われた。その歴史を紐解く。

それでは、北白川宮能久親王の激動の生涯を、時代背景とともに振り返っていきましょう。

まずは、幼少期から戊辰戦争での活躍までを追います。

激動の幕末と戊辰戦争

北白川宮能久親王は、戊辰戦争でどんな立場をとったのでしょうか?

幕府側につきました

日清戦争での台湾攻略戦は、多くの日本兵の命を奪った。

北白川宮能久親王もその一人であり、その死には様々な情報錯綜があった。

北白川宮能久親王の戦病死をめぐって

公開日:2018/06/28

北白川宮能久親王の戦病死をめぐって

✅ 日清戦争後の台湾併合において、近衛師団を中心とした日本軍は台湾住民の激しい抵抗に遭い、多くの兵士が戦病死しました。特に彰化での戦況は深刻で、師団長を務めていた北白川宮能久親王も発病し、その後台南にて亡くなりました。

✅ 北白川宮能久親王は、幕末から明治にかけて数奇な運命をたどった人物であり、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主となるなど、様々な立場を経験しています。日清戦争では近衛師団長として台湾攻略戦に参加し、戦病死しました。

✅ 北白川宮能久親王は台湾攻略戦中の10月18日に嘉義で発病し、悪性のマラリア、肺炎、脳症を併発し、深刻な病状が電報で本営に伝えられました。しかし、通信手段の不調などが原因で情報が錯綜し、現地からの連絡は台北の総督府を経由して本営に送られることが多かったようです。

さらに読む ⇒日本近現代史の講座出典/画像元: http://jugyo-jh.com/nihonsi/%E3%80%8A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2a%E3%81%AE%E6%BA%96%E5%82%99%E5%AE%A4%E3%80%8B-2/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E7%97%85%E6%AD%BB%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6/

情報伝達の遅れや誤報が、事態をさらに複雑にしているのが印象的ですね。

激戦の状況と、それに翻弄される人々の姿が目に浮かびます。

北白川宮能久親王は、1847年(弘化4年)に伏見宮邦家親王の第9子として生まれ、輪王寺宮と名付けられました。

1858年(安政5年)に親王宣下を受け、能久親王を名乗り、同年得度しました。

1867年(慶応3年)には江戸の寛永寺に入り、寛永寺貫主、日光輪王寺門跡を継承しました。

戊辰戦争が始まると、幕府のために尽力し、彰義隊の敗北後、榎本武揚率いる幕府の軍艦に乗り込み東北に向かいました。

会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されました

その後、仙台藩が新政府軍に降伏し、京都に送られ、実家の伏見宮家で謹慎処分となりました。

うーん、すごく大変だったんだね…。でも、北白川宮能久親王さまも、きっと一生懸命だったんだろうな。なんか、すごい人って感じ。

明治時代の軍人としての道を歩む

北白川宮はドイツで誰と婚約した?

ドイツ貴族の未亡人

戊辰戦争後、北白川宮能久親王はドイツ留学を経て軍人としての道を歩む。

様々な経験が、彼の人生を形作ったのでしょう。

北白川宮能久親王
北白川宮能久親王

✅ 輪王寺宮公現は、幕末に徳川幕府と新政府の間で起こった戊辰戦争において、当初は徳川慶喜の助命を求めて新政府に嘆願を行ったが、その後は新政府に反感を持ち、奥羽越列藩同盟に盟主として迎えられました。

✅ 公現は、奥羽越列藩同盟の軍事面での指導を拒否したものの、政治面では盟主として、同盟軍を率いて新政府軍と戦いました。

✅ 戊辰戦争中、公現は「東武天皇」として擁立されたという説があり、歴史研究者の中には、公現が東北朝廷を樹立したと主張する者もいます。

さらに読む ⇒出典/画像元: https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

新政府への対応や留学、結婚問題など、様々な出来事が彼の運命を左右したんですね。

激動の時代を生き抜く姿が描かれています。

1870年(明治3年)にはドイツへ留学し、2年後には北白川宮を相続しました。

ドイツでは陸軍大学校で学び、1872年(明治7年)には陸軍少佐に任官しました。

1876年(明治9年)にはドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約しますが、明治政府から結婚の許可を得られず、婚約は破棄されました

その後は陸軍の職務に励み、仁孝天皇の猶子、親王の復帰、陸軍少将、中将に昇進していきました。

ちょっと待って!結婚の許可が出なかったとか、マジですか?…まあ、時代もあったんやろけど、不憫やなあ。色々あったんやね。

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皇族・北白川宮家。激動の時代を駆け抜けた能久親王、そしてその家族たち。時代に翻弄されながらも、家族の絆を胸に生きた軌跡を描く、知られざる物語。