破天荒コント師レオナルド熊と石倉三郎、幻のコントコンビ『コント・レオナルド』とは?BS朝日の番組でコント・レオナルドが特集
破天荒な人生を駆け抜けた漫才師、レオナルド熊と名脇役・石倉三郎。二人は幾度となくコンビを組み、不条理コントで一世を風靡。社会風刺を織り交ぜた笑いは人々の心に響いた。しかし、コンビ仲は波乱万丈。解散と再結成を繰り返し、最後は絶縁状態に。栄光と挫折、そしてそれぞれの道へ。コント・レオナルドの知られざる物語。
コントコンビ「コント・レオナルド」の結成と解散
コント・レオナルドは何年解散した?
1985年
コント・レオナルドの結成と解散の背景には、さまざまな問題があったんですね。
公開日:2022/07/26

✅ コント・レオナルドは、レオナルド熊率いる日本のコントコンビで、1979年に結成、1985年に解散しました。
✅ 熊のドタキャン癖、メンバー間の金銭トラブル、熊の苛めなど、コンビ仲は最悪で、度重なるメンバー交代や解散を経て、1985年に最終的にコンビは解消しました。
✅ 解散後、熊は俳優として活躍し、石倉は俳優として現在も活躍していますが、二人は絶交しており、熊の葬式でも顔を合わせませんでした。
さらに読む ⇒ライターズラボ★知的快感!ポータルサイト出典/画像元: https://writerzlab.com/kazamidori-reonarudo/解散後もお互いに会うことがなかったというのは、それだけ確執があったということですよね…。
レオナルド熊と石倉三郎は1973年に「ラッキーパンチ」を結成し、その後、初代「コント・レオナルド」を結成しますが、いずれも解散しました。
1981年に再結成した二代目「コント・レオナルド」は、社会風刺を巧みに織り交ぜた不条理コントで人気を集めましたが、1985年に再び解散しました。
解散後、熊は劇団の主宰を務め、石倉は俳優として活躍しています。
熊と石倉はその後絶縁状態となり、1994年に熊が死去するまで二度と会うことはありませんでした。
不条理コントで人気を博したコント・レオナルド。しかし、その裏には深い溝があったようです。人間の業を感じますな。
「コント・レオナルド」の苦難と崩壊
コント・レオナルドはなぜ解散したの?
コンビ仲が悪化して
ブッチー武者さんもコント・レオナルドに関わっていたんですね。
色々な人が関わっていたんですね。

✅ ブッチー武者さんは、1983年10月からスタートしたフジテレビの人気番組「オレたちひょうきん族」のコーナー「ひょうきん懺悔室」で懺悔の神様として出演し人気を獲得しました。
✅ 彼は1977年にデビューし、師匠であるレオナルド熊さんとコンビを組んでいましたが、師匠との関係が悪化し、ノイローゼになるほど追い詰められました。
✅ その後、水島敏さんとコンビを組み「アッパー8」を結成し、1982年には日本テレビの「お笑いスター誕生!!」で5週連続合格を果たすなど、活躍しました。
さらに読む ⇒「記憶をくすぐる」大人のメディア (ミドルエッジ)出典/画像元: https://middle-edge.jp/articles/DGXyO熊さんのこだわりが強かったこと、石倉さんの酒癖が悪かったこと、色々原因があったんですね。
解散は残念ですね。
レオナルド熊と石倉三郎のコンビ「コント・レオナルド」は、1979年に結成されました。
初代はレオナルド熊と弟子である武者博和で結成されましたが、武者の怪我や熊の厳しい指導による武者のノイローゼなど、コンビ仲は良好ではありませんでした。
その後、石倉三郎が加入し、二代目のコント・レオナルドが結成されました。
二代目は鋭い社会風刺で人気を博しましたが、熊の演出に対する拘りと、石倉の酒癖の悪さなどから、コンビ仲は再び悪化し、1985年に解散しました。
解散後、熊は劇団を主宰し、石倉は俳優として活躍しており、その後は絶縁状態が続きました。
うーん、コント・レオナルドって、なんか色々あったんだね…。でも、最後は絶縁って、ちょっと寂しいね。
コント・レオナルドの短い活動期間の中に、様々な人間ドラマがあったことがよくわかりました。
またお会いしましょう。
💡 レオナルド熊と石倉三郎によるコントコンビ「コント・レオナルド」は、時代を彩った存在であった。
💡 コンビの解散後も、それぞれの道を歩み、多方面で活躍している。
💡 破天荒なコントと、人間ドラマが交差するコント・レオナルドの物語は、多くの人々に影響を与えた。