松井秀喜と山口哲治、二人の高校時代はどんな関係だったの?意外な関係性とは!?
💡 松井秀喜と山口哲治は、星稜高校の同級生であり、共に甲子園を経験した。
💡 松井秀喜は巨人に入団し、プロ野球界のスター選手となり、山口哲治は社会人野球で活躍した。
💡 二人の関係は、高校時代から社会人時代、そして現在に至るまで、深い絆で結ばれている。
それでは、二人の高校時代から社会人時代までを振り返りながら、二人の関係について詳しく見ていきましょう。
松井秀喜のドラフト指名
それでは、まずは松井秀喜選手のドラフト指名についてお話しましょう。
✅ 1992年のドラフトで巨人に入団した松井秀喜選手の会見の様子が、当時のスポニチアマチュア野球担当キャップの筆者によって語られています。
✅ 松井選手は阪神ファンで、ドラフトでは阪神が1位指名をすることを期待していましたが、巨人が1位指名をしたため、会見では笑顔を見せず、失望感を漂わせていました。
✅ 松井選手は長嶋監督から電話があった際にも、顔色一つ変えず、冷静に振る舞い、彼の強い意志を感じさせたというエピソードを紹介しています。
さらに読む ⇒Number Web - ナンバー出典/画像元: https://number.bunshun.jp/articles/-/56839?page=1松井選手は、巨人に入団することを決断したのですね。
1992年のドラフト会議では、星稜高校の松井秀喜選手が巨人から1位指名を受けました。松井選手は甲子園で5打席連続敬遠を経験し、注目を集めていました。中日、阪神、ダイエーも松井選手を1位指名しており、最後のくじを引いた巨人が交渉権を獲得しました。ヤクルトは三菱自動車京都の伊藤智仁投手を、3球団競合の末に獲得しました。また、2年前にロッテの1位指名を拒否した松下電器の小池秀郎投手が、近鉄に1位指名され入団しました。
そりゃあ、巨人ファンは喜んだやろな。
山口哲治の高校時代とその後
続いて、山口哲治選手についてお話を伺いたいと思います。
✅ 山口哲治さんは、松井秀喜さんが中学時代に手も足も出なかった天才投手であり、高校時代は「打の松井、投の山口」として星稜高校を引っ張っていました。
✅ 甲子園では、松井秀喜さんが5連続敬遠された明徳義塾戦で敗れましたが、プロ入りを志望したもののドラフトで指名されず、社会人野球を経て野球人生を終えました。
✅ 現在は神戸製鋼に勤務し、生産管理の仕事に就いており、少年野球の監督を務めるなど、野球に携わっています。
さらに読む ⇒エンタメになる!出典/画像元: https://interested-media.com/yamaguchi-tetsuji-6854松井選手との関係性も興味深いですね。
松井秀喜さんと同級生だった山口哲治さんは、中学時代は松井秀喜選手を完全に抑え込み、星稜高校でもエースとして活躍した投手でした。高校時代には甲子園で松井秀喜選手が5連続敬遠された明徳義塾戦で先発登板、2対3で敗れています。高校卒業後、プロ入りを目指しましたがドラフト指名されず、社会人野球で活躍しますが左肩の怪我により引退。現在は神戸製鋼に勤務し、生産管理の仕事をしています。少年野球の監督を務め、子供たちを指導しているそうです。松井秀喜選手とは、中学時代から苦楽を共にしたライバルであり、プロで対戦するという夢は叶いませんでしたが、野球を通じて深い絆で結ばれています。
社会人野球は、プロ野球とは異なる魅力があります。
松井秀喜との距離と社会人野球への決意
二人の関係性について、もう少し詳しくお話を伺いたいと思います。
✅ 松井秀喜氏は、星稜高校時代のチームメートでエースだった山口哲治氏が、自分にとって大きな存在であったと語った。
✅ 山口氏は松井氏に才能を見出され、投手に専念することを勧められたことで、松井氏は打者として成長できたと振り返っている。
✅ 山口氏はプロ入りを果たせず、社会人野球で活躍するも故障に苦しみ、引退後は松井氏の結婚式のスピーチで励まされ、現在では少年野球チームの監督を務めている。
さらに読む ⇒デイリースポーツ online出典/画像元: https://www.daily.co.jp/baseball/2019/01/04/0011953245.shtml松井選手は、山口選手のことを高く評価していたんですね。
1992年のドラフトで、星稜高校の松井秀喜は4球団競合の末に巨人に入団した一方、エースの山口哲治は指名漏れとなりました。山口は松井との距離を感じ、ドラフト当日にはほとんど会話をする機会がありませんでした。指名漏れという屈辱を味わった山口のもとには、クラスメートや神戸製鋼などの社会人チームが訪れ、山口は社会人野球の世界に進むことになるのです。
結婚式のスピーチって、なんか感動するよねー。
社会人野球での活躍とプロへの夢
最後に、山口哲治選手の社会人野球での活躍についてお話ししましょう。
✅ 1992年の夏の甲子園で、明徳義塾と星稜の試合において、明徳の馬淵監督は、星稜の松井秀喜を5打席連続で敬遠しました。
✅ 松井の圧倒的な打撃力と、明徳の投手陣の力不足を考慮し、勝負どころでは松井を敬遠するという戦略を採用したのです。
✅ この試合は、松井の敬遠によって試合が展開され、球場では観客から「帰れ!帰れ!」という声が飛び交うなど、大きな騒動となりました。
さらに読む ⇒Yahoo!ニュース出典/画像元: https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8d2d57fb1cb130c8c72c388372765f040f6059a9山口選手は、プロ入りを諦めながらも、社会人野球で活躍したんですね。
1992年、星稜高校のエース山口哲治は、同級生松井秀喜が5打席連続敬遠された試合で、自身も3失点と苦戦しました。山口は、松井が敬遠されることは特別なことではなく、最初は冷静に対処していましたが、それが続くことでチームが追い詰められたと振り返っています。山口は、9回表2アウトで迎えた自身の打席で、クラスメートの松本から「絶対に打てよ!」と励まされ、窮地を脱しようと落ち着いていました。山口は社会人野球の神戸製鋼に入社し、社会人での経験を通して、高校時代には課題だったコントロールが向上し、チームの中心選手として活躍しました。しかし、5年目以降は球速が落ち始め、思うようにボールが投げられなくなる。その後、山口はプロ野球への夢を諦め、神戸製鋼で野球部のコーチなどを務めながら、会社に貢献している。しかし、山口は「後悔はいっぱいあったけど、あの時神戸製鋼を選んでよかった」と語っており、社会人野球での経験が自身の成長に繋がったと感じているようだ。
あの時、山口はどんな気持ちやったんやろか?
松井秀喜選手と山口哲治選手の関係性は、高校時代から現在に至るまで、互いに影響を与え合い、支え合ってきたことが分かります。
💡 松井秀喜選手と山口哲治選手は、高校時代から社会人時代まで、深い絆で結ばれていた。
💡 山口哲治選手は、プロ入りを諦めながらも、社会人野球で自身の成長を遂げた。
💡 二人の関係は、互いに尊敬し合い、支え合い、友情を育んできたことを物語っている。