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いしだあゆみと『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、どんな関係?誕生秘話とは!!?

「ブルー・ライト・ヨコハマ」で一世風靡!歌手、女優として活躍するいしだあゆみ。フィギュアスケート選手から始まった波乱万丈な人生と、筒美京平との黄金コンビが産み出した名曲の秘密に迫る!

作詞家橋本淳と作曲家筒美京平の創作秘話

「ブルー・ライト・ヨコハマ」誕生のきっかけは?

川崎の夜景

作詞家と作曲家の創作秘話、興味深いですね。

ブルー・ライト・ヨコハマ』を作った橋本淳と筒美京平 の2ショットが目の前で…」ミッツ・マングローブが「夢のよう」な偶然の出会い明かす:中日スポーツ・東京中日スポーツ
ブルー・ライト・ヨコハマ』を作った橋本淳と筒美京平 の2ショットが目の前で…」ミッツ・マングローブが「夢のよう」な偶然の出会い明かす:中日スポーツ・東京中日スポーツ

✅ ミッツ・マングローブが「バイキングMORE」に出演し、亡くなった作曲家筒美京平さんと偶然出会った思い出を披露した。

✅ ミッツは歌手としてCDデビューしており、筒美さんが作曲した「ブルー・ライト・ヨコハマ」を作詞した橋本淳さんと打ち合わせをした際に、ホテルオークラのバーで筒美さんと偶然遭遇した。

✅ ミッツは筒美さんと橋本淳の2ショットを目の当たりにしたことに感激し、スタジオ出演者も驚きと興奮を隠せない様子だった。

さらに読む ⇒中日新聞Web出典/画像元: https://www.chunichi.co.jp/article/136427

偶然の出会いが、音楽を生み出すきっかけになることもあるんですね。

橋本淳氏は、作詞家としての活動当初は、特に意識して活動を継続しようとは考えていなかった。

ブルー・コメッツの「ブルー・シャトー」の歌詞は、スウェーデンの風景をイメージして生まれたもので、ひらめきやフィーリングを重視した創作スタイルが伺える。

一方、筒美京平氏は、歌作りにおいてコード進行を重視し、日本的なテイストを巧みに取り入れることで、数々のヒット曲を創り出していた。

橋本淳氏は、いしだあゆみさんのコロムビア移籍3曲目のために「ブルー・ライト・ヨコハマ」を制作する中で、横浜の丘から眺めた川崎の工業地帯の夜景にインスピレーションを受け、「ブルー・ライト・カワサキ」というタイトルを思いついたという。

歌詞は、横浜の港の見える丘公園やカンヌの夜景、ピカソの゛青の時代゛の絵画からインスピレーションを得て生まれた。

当時、戦争の傷痕が残る日本に対し、カンヌの青い海やピカソのブルーは衝撃的なものであり、橋本はそれらに心を奪われ、彼の創作の根本には常に゛青゛があったという。

作詞依頼を受けた橋本は、横浜の街を歩き、錆びた貨物船のドッグなどを見ながらも、イメージとは異なる風景に失望し、ホテルの一室で歌詞を書き上げた。

レコーディング前夜に、筒美は橋本から歌詞を電話で聞き、徹夜で作曲を行い、翌日にレコーディングが行われた。

ミッツ・マングローブさん、すごい!憧れの筒美京平さんと会えてよかったね!

「ブルー・ライト・ヨコハマ」の時代背景と影響

「ブルー・ライト・ヨコハマ」は何を歌い、どんな影響を与えた?

希望より゛幸せ゛, 大ヒット、街に青色流行

この章では、『ブルー・ライト・ヨコハマ』が生まれた時代背景と、社会に与えた影響について考察していきます。

ブルー・ライト・ヨコハマ〜横浜からヨコハマへと街の色を変えた一曲
ブルー・ライト・ヨコハマ〜横浜からヨコハマへと街の色を変えた一曲

✅ 「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、1968年クリスマスにリリースされ、発売日に10万枚、10日間で100万枚という驚異的な売上を記録した、いしだあゆみの26作目のシングル曲です。

✅ 作詞は橋本淳、作曲は筒美京平が担当し、筒美京平にとって初のオリコン週間1位を獲得した楽曲となり、第11回日本レコード大賞・作曲賞を受賞しました。

✅ 歌詞は、橋本淳が横浜の港の見える丘公園、フランス・カンヌの夜景、ピカソの゛青の時代゛の絵画からインスピレーションを得て、当時の日本の風景と対比させながら書き上げられました。この曲は、当時流行していた不幸や貧しさをテーマにした曲とは異なり、希望に満ちた未来ではなく、今ある゛ほんのひとときの幸せ゛を歌ったことが、人々に受け入れられた理由と考えられます。

さらに読む ⇒TAP the POP出典/画像元: https://www.tapthepop.net/machinouta/45360

『ブルー・ライト・ヨコハマ』が当時の人々に与えた影響は、まさに時代の証と言えるでしょう。

当時の流行歌は不幸や貧困をテーマにしたものが多かったが、「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、希望よりも゛ほんのひとときの幸せ゛を歌い、時代とマッチしたと言える。

この曲は、橋本にとって『ブルーシャトー』に次ぐ大ヒットとなり、゛ブルー゛を基調とした横浜の夜景や、野球チームや駅伝のユニフォームなど、街に大きな影響を与えた

50年以上経った今も、ヨコハマには青が似合うのである。

ホンマに、あの頃はブルーって流行ってたもんな。

いしだあゆみの多岐にわたる活躍と代表作

いしだあゆみさんの代表作は何ですか?

「ブルー・ライト・ヨコハマ」

いしだあゆみさんの多岐にわたる活躍について、詳しく見ていきましょう。

その時、音楽シーンが動いた #1】筒美京平、稀代のヒットメーカーの幕開け 勝負をかけた「ブルー・ライト・ヨコハマ」
その時、音楽シーンが動いた #1】筒美京平、稀代のヒットメーカーの幕開け 勝負をかけた「ブルー・ライト・ヨコハマ」

✅ 「ブルー・ライト・ヨコハマ」がオリコン1位を獲得したことで、筒美京平は歌謡界の頂点に立ち、日本の音楽シーンに大きな影響を与えました。

✅ 筒美京平は、1969年2月10日にいしだあゆみに提供した「ブルー・ライト・ヨコハマ」で、初めてチャート1位を獲得しました。

✅ 「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、筒美京平が作曲、編曲、いしだあゆみが歌唱、橋本淳が作詞、泉明良がディレクターを務めた、歌謡曲と洋楽を融合したエポックメーキングな作品であり、その斬新なサウンドによって、日本の音楽シーンに大きな変化をもたらしました。

さらに読む ⇒ENCOUNT | エンカウント ―日本の「今」がここにある―出典/画像元: https://encount.press/archives/113717/

いしだあゆみさんの活躍は、まさに音楽界のレジェンドと言えるでしょう。

いしだあゆみさんは、1968年に『ブルー・ライト・ヨコハマ』で歌手デビューし、翌年にはレコード売り上げ150万枚を記録、大ヒットしました。

その後も歌手活動だけでなく、女優としても『青春の門自立編』や『男はつらいよ寅次郎あじさいの恋』などに出演し、数々の賞を受賞するなど活躍を続けました。

1980年に萩原健一さんと結婚しましたが、4年後に離婚されています。

子供はおりません。

いしだあゆみさんは4人姉妹で、長女である石田治子さんは元フィギュアスケート日本代表、四女であるいしだゆりさんは元歌手です。

現在はテレビドラマへの出演は少ないですが、2021年7月にはテレビ東京系列『病院の治しかた~スペシャル~』に出演予定とのことです。

いしだあゆみさんの今後の活躍に期待しましょう。

いしだあゆみの1969年4月25日発売の1stアルバム『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、コロムビア移籍後のヒット曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』を含む全12曲を収録。

作曲家・筒美京平によるアレンジが光る作品で、特に『ブルー・ライト・ヨコハマ』のドラマティックな展開や『恋はそよ風』の60年代ガール・ポップ調は必聴。

筒美京平の才能を遺憾なく発揮した作品であり、いしだあゆみの歌手としての黄金時代を象徴するアルバムと言える。

また、150万枚以上のセールスを記録し、いしだあゆみの代表作として多くのファンに愛されている

いしだあゆみさんの音楽は、時代を超えて愛され続ける、まさに不朽の名作と言えるでしょう。

本日の記事は以上となります。

ご視聴ありがとうございました。

🚩 結論!

💡 いしだあゆみは『ブルー・ライト・ヨコハマ』で歌手として再スタートを切り、その後も数々のヒット曲を世に送り出した。

💡 『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、横浜の夜景を題材にした歌詞と、筒美京平による斬新なメロディーが融合した、まさに時代の寵児と言える楽曲である。

💡 楽曲は、当時の社会状況や文化を反映し、時代を超えて愛され続ける不朽の名作となった。