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三船敏郎はどんな人生を送ったのか?映画史に燦燦と輝くその軌跡とは!!!

映画界を席巻した不世出の俳優、三船敏郎。生誕100年を記念し、彼の波乱万丈な生涯と、黒澤明監督との名作群を振り返る。時代劇からアクション、社会派ドラマまで、27作品上映と貴重な展示で、その圧巻の演技と人間性に迫る。

三船敏郎はどんな人生を送ったのか?映画史に燦燦と輝くその軌跡とは!!!

📘 この記事で分かる事!

💡 三船敏郎は、黒澤明監督作品で国際的な名声を得た日本の映画俳優です。

💡 俳優になることを志望していなかった三船敏郎が、どのようにして映画界のスターとなったのか。

💡 晩年の三船敏郎がどんな思いを抱いていたのか。

それでは、三船敏郎の波瀾万丈な人生を紐解いていきましょう。

三船敏郎の生い立ちと軍隊での経験

三船敏郎はどこで航空写真撮影を担当?

満州陸軍第七航空隊

三船敏郎は、中国生まれで写真館を経営する父の影響で、幼少期を中国で過ごされました。

三船敏郎
三船敏郎

✅ 三船敏郎は、中国生まれで俳優になることを志望していなかったが、東宝のニューフェイス募集に偶然参加し、俳優としての道を歩む。

✅ 初期の役柄では、不良ややくざ役で、戦後世相を表すような荒々しい演技で人気を博し、黒澤映画では様々な役柄に挑戦し、国際的な評価を得る。

✅ 特に「羅生門」での野性的で獰猛な盗賊役は、彼の演技の幅広さと魅力を示し、動物的な衝動を表現した新しい演技スタイルは日本の映画俳優に新たな視点を提供した。

さらに読む ⇒日本最大級の映画データベースサイトキネマ旬報トップページ出典/画像元: https://www.kinejun.com/person/view/48133

三船敏郎の生い立ちと軍隊での経験は、後の俳優人生に大きな影響を与えたのではないでしょうか。

1920年、中国山東省青島で生まれた三船敏郎は、写真館を経営する父の仕事の関係で、1925年に大連に移住し、その後、1934年に大連中学校に入学。

1938年に卒業後、1940年には徴兵され、満州陸軍第七航空隊に入隊し、航空写真撮影を担当。

その後、満州陸軍第八航空教育隊に転属し、滋賀県八日市に移ります。

1945年には熊本県上益城郡城南町隈乃庄の特攻隊基地に配属され、終戦を迎えます。

中国生まれとか、知らんかったわ。

俳優デビューと黒澤明監督との出会い

映画俳優・三船敏郎、運命を変えた出来事とは?

山本嘉次郎との出会い、俳優としての補欠採用。

三船敏郎の俳優デビューは、偶然の出会いから始まりました。

三船敏郎特集で「酔いどれ天使」「銀嶺の果て」など本上映、実息のトークも(写真枚)
三船敏郎特集で「酔いどれ天使」「銀嶺の果て」など本上映、実息のトークも(写真枚)

✅ 7月10日から25日まで、東京・新文芸坐にて三船敏郎出演映画の2本立て特集上映が開催されます。

✅ 上映作品は、黒澤明監督作品や稲垣浩監督作品、岡本喜八監督作品など多岐に渡り、三船敏郎の幅広い演技力に触れることができます。

✅ 16日には三船史郎氏と「三船敏郎、この10本 黒澤映画だけではない、世界のミフネ」の著者・高田雅彦氏によるトークショーも開催されます。

さらに読む ⇒ナタリーポップカルチャーのニュースサイト出典/画像元: https://natalie.mu/eiga/news/290307

黒澤明監督との出会いは、三船敏郎の人生を大きく変えましたね。

終戦後、三船は東京の東宝撮影所を訪れ、カメラマン助手を志願しますが、誤って俳優の募集に回され、1946年6月に面接を受け、映画監督の山本嘉次郎に見出され、役者として補欠採用されます

1947年、映画監督の谷口千吉に説得され、映画『銀嶺の果て』で俳優デビューを果たします。

翌年1948年には黒澤明監督の『酔いどれ天使』で主役の一人を演じ、大成功を収め、人気俳優となります。

1951年の『羅生門』がベネチア国際映画祭のグランプリを受賞し、国際的な俳優としての地位を確立しました。

黒澤監督との出会いは、まさに運命的なものだったと言えるでしょう。

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映画界の巨星、三船敏郎。黒澤明との名作から晩年の姿まで、生誕100年記念上映&展示でその軌跡を辿る。波乱万丈の生涯と圧巻の演技を堪能あれ!